深堀氏考


【上総国深堀氏と長崎】





起源

 深堀氏は、桓武平氏三浦氏の支族であり、和田合戦の際に滅亡を逃れた和田氏傍流の子孫である仲光が上総国内野郷深堀(現、千葉県いすみ市深堀)を本拠地として深堀氏を称したのに始まるといわれている。

鎌倉時代

 深堀仲光は鎌倉御家人となり、1221年の承久の乱で勲功あり、摂津国吉井荘の地頭職を与えられたが、その子能仲は恩賞地の変更を願い出て、筑後国甘木村と東・西深浦村を獲得。さらに替地を申し出て、1255年(建長7年)仁和寺領肥前国彼杵(そのぎ)荘戸町浦(戸八浦:とはちうら、長崎市)の地頭になり(深堀能仲自身は上総国内野郷在住)その子行光を代官として経営を任せた。深堀行光はその子時光を派遣し、戸町浦(戸八浦)の地名を深堀に改め、その庶子が元寇に備えて長崎に土着したと伝えられる(高浜氏・野母氏)。当時戸八浦には在地豪族の戸町氏・石塚氏らがおり、深堀氏はその土豪らと抗争を繰り返しながら所領を拡大し、1281年の弘安の役(第二回元寇)では、時光の子時仲の戦功著しく肥前国神埼荘にも荘内の地を与えられた。

室町時代

 南北朝時代には北朝方につき、肥前・筑前の数カ所にも所領を得た。したがって、長崎半島の大部分のほか、その西側の島々や北九州各地に点在する所領を有していた。その居城は深堀城(肥前国俵石城)であり、たびたび長崎氏(長崎市)を攻撃した。長崎市深堀町城山(標高350m)には俵石城の遺構が残っている。

戦国-江戸時代

 戦国時代には、竜蔵寺氏に従い大村純忠と戦った。戦国時代の血脈として、竜造氏軍門の西郷氏からの養子(深堀純賢)の後、鍋島氏の縁戚石井氏からの養子(深堀茂賢)をとっている。深堀氏は長崎港を利用する貿易船から通行税をとり、拒否すると積み荷を強奪していたが、これが海賊行為として豊臣秀吉の怒りに触れ、一時全領地を没収された。領地は親戚筋の鍋島氏の取りなしにより一部返還されたため、秀吉朝鮮出兵には鍋島氏の家臣となり朝鮮で善戦したといわれる。その後鍋島氏より鍋島姓を賜り、知行?6000石の佐賀藩家老・長崎奉行大番頭として江戸末期まで続いたとされる(深堀鍋島家)。従って、深堀家菩提寺の代々の墓の姓は「鍋島」である。

 佐賀県立博物館には鍋島家所有の重要文化財として、1229年から1596年頃までの古文書390通を9巻に収めた「深堀文書」が保管されている。この文書により、深堀氏が上総国から肥前国に地頭職を得て下向し、代官支配役から異国警固番役となって九州各地に土着していく過程が推察できるといわれる。

 長崎市深堀町には深堀姓が多い。また長崎市深堀町には、元禄13年に「深堀騒動」と呼ばれる大事件が起こっている。長崎代物替会所頭取高木彦右衛門の西浜町の屋敷へ鍋島家の深堀衆21人が討ち入り、彦右衛門らを斬殺したもので、元禄15年の赤穂義士討入りの手本にされたといわれる。


【上野国深堀氏】

起源

 1992年3月千葉県夷隅郡大原町では、町起こしの一環として、深堀の滝口神社入口に「深堀氏碑」を建立した。しかし、である。いすみ市には「フカホリ」はあるが「フカボリ」はない。長崎にも「フカホリマチ」はあるが、「フカボリマチ」はない。「フカホリさん」はいるが、「フカボリさん」はいないのである。「フカボリさん」はどこから来たのであろうか。
 名字辞典の「深堀 フカボリ」の欄には「各市町村に存す。群馬県高崎市三十戸、千葉県旭市三十戸、長野県飯山市十九戸、宮城県桃生郡矢本町十七戸、青森県上北郡十和田湖町十二戸あり。」とある。姓名でなく、地名となれば、さらにいくらでもある。すなわち、「深い堀」がありさえすれば、どこにあっても不思議ではないのである。また、単身で遠方へ出かけ、周囲の人々が「フカボリ」と呼び続け、呼ばれた本人がそれに納得してしまえば、それでもすんでしまう。一方、追っ手から逃れて、「フカホリ」とは無関係とはしながらも、全く異なった名字ではルーツの欠片も残らないので、似て非なるものに化けた可能性もあるかもしれない。上総国深堀氏の出自であり、和田義盛の乱をからくも生き延びた和田氏の傍流は、群馬県高崎市付近に移って土着した。ここは和田と呼ばれるようになったが、九州下向を拒んだ上総国深堀氏の一部が上野国和田氏を頼って移り住んだ可能性も考えられる。

室町時代

 高崎市鼻高町には、「フカボリ」姓の集落があるが、ここには「貞和(じょうわ:1300年代中期・足利尊氏の時代)」の年号の入った古い石版碑が存在している。これは、その年代には「フカボリ」氏が既にこの地域での有力者になっていた可能性を示している。上野国深堀氏が上総国深堀氏とどんな関係にあるのか不明ではあるが、上総国深堀氏が長崎へ下向した100年後には、上野国にも深堀氏の一勢力が存在していたことになる。

戦国-江戸時代

 戦国時代になると、西上州は、上杉・武田・北条の各氏攻防の最前線となり、上野国深堀氏もその中で歴史に翻弄され、その片鱗がいくつかの歴史書に見え隠れしている。新島襄の出身地として有名になった安中市の北西で、花見の名所と知られる秋間梅林の東方に八貝戸の丘があるが、ここには、1500年代中頃に八貝戸砦と呼ばれる山城があった。

 この城には、深堀藤右衛門という人物が居を構えていたことが安中市誌に記されている。深堀藤右衛門は秋間七騎と呼ばれる安中氏家臣団の一人で、秋間七騎は碓氷郡一騎当千として西上先方衆あるいは安中衆といわれ恐れられた。安中氏は越後国から西上州へ移住してきた戦国武士で、野尻の地を安中と改めた。碓氷郡先住の土豪達は次第に安中氏に従い、その家臣団を形成していった。安中氏は当初、山内上杉氏の配下であったが、北条氏の上州侵攻に伴い北条方につき、武田氏が西上州に侵攻してくる頃には上杉方に属して、武田氏の上州進出を阻止した。

 

 上州上杉勢の要である箕輪城主長野業政が病没すると、西上州は一気に武田氏の手に落ち、安中氏の一族は戦死あるいは降伏して家臣118騎とともに武田氏の配下となったという。武田氏旗下では、安中氏は甘利氏の妹婿として信州に配属された。深堀氏は、安中氏の家臣だった為、その動向は安中氏に従ったと考えられるが、長野県には深堀の地名が散在し、地域の代官として上諏訪神社の造営にあたった旨の古文書が残る。長野県飯山市には深堀姓が多い。

 

 信玄病没後の安中氏は勝頼に仕えて長篠の合戦に赴き、一族郎党のほとんどが戦死した。その後は安中氏の傍流が後を継いだが、武田家滅亡後は滝川一益に従い、その後は北条氏に従って、北条氏滅亡後は四散した。

 

 安中氏の一部は武田氏の上州侵攻から一時出羽国庄内に逃れ、また高崎付近に帰った。山形県大石田には深堀の地名が残っている。高崎市には深堀氏が2系統あるが、鼻高町の集落に属さない一族(現代の名工・細工細物製作工・深堀喜一氏の一族)には、祖先は山形から高崎に来たという伝承があるという。庄内から高崎にもどった安中氏の末裔は、老中秋元喬知に仕えたが、その実父老中戸田忠昌は下総佐倉藩初代藩主であり、佐倉藩は旭市を領有していることから、旭市に多い深堀氏は山形から帰ってきた一派である可能性も考えられる。

 

 上総国深堀氏は平氏であるが、高崎市鼻高町の深堀氏の家紋は丸に桔梗であり、これは源氏を意味している。また高崎市の深堀喜一氏一族の家紋は丸に橘であり、源平藤橘という名字の先祖の流れからすると、それぞれ別の系統なのかもしれない。戦いに降伏して主家が変わると家紋も変更させられる可能性も考えられるので、これを根拠に云々することはできないが、千葉から群馬への移動の可能性や欠落している100年間の情報を探しに探索の旅に出かけるのもいいかもしれない。

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