長崎市深堀町探訪
深堀能立


 その朝長崎は霧に包まれていた。
カーテンを開けると、稲佐山の頂上だけが薄ぼんやりと海の孤島のように浮かんでいた。「JR九州ホテル長崎」の宿である。
 そうだ、深堀へ行くのだ!
 今日は、決意を込めた宿願の長崎市深堀町探訪。長崎市へは学会発表で何度も来ていたのだが、グラバー園から10km程先の深堀町には、まだ一度も足を踏み入れたことがなかった。深堀が深堀へ行ったことがなかったなんて!
 さあ、出掛けよう深堀町。
 佐世保バーガーとの格闘の後、タクシーに乗った。この頃から霧がポツリポツリ雨に変わってきた。後に「平成30年7月豪雨(西日本豪雨)」と呼ばれた大災害の幕開けであった。タクシーの運転手が言った。 「何ヶ月か前にも一度、深堀町を見に行きたいと言った人がいましたよ。」
 私は思った。これは歴史が好きな関東の深堀さんに違いないと。
 長崎市の深堀町は、現千葉県いすみ市深堀に拠って深堀姓を名乗った和田氏(三浦氏の一族・平氏)が、鎌倉時代に武功によって得た長崎の土地に移り住んだことにより始まる。地域の名前が深堀であるが、住民も深堀姓が多い。
 20分程でタクシーは、長崎市役所深堀支所へ到着した。ここは、お目当ての「深堀神社」の正面に当たる。早速、私は深堀城下町探訪を開始した。


 まず、支所で深堀町探訪マップをゲットする。深堀町は、すでに「まちづくり推進協議会」によって、観光パンフレットができあがっていたのだ。パンフレット「歴史のまち ふかほり」は、深堀町後方の城山まで含めた、地図・写真付き観光スポット解説書であり、「さるくコースマップ深堀界隈」は、「深堀城下町探訪〜語り継がれる深堀義士伝の町〜」と副題が掲げられた、散策順路・観光スポット解説付き地図である。「さるく」とは、まちをぶらぶら歩くという意味の長崎弁。「さんさく」しながら「あるく」ということなのだろう。
 観光スポットと自分の持ち時間を勘案しながら、今日の私の「さるく」コースを決めた。
 スタートは、やはり、深堀神社である。市役所支所に隣立する、石造りの大鳥居は、深堀町の顔であり、玄関にふさわしい。江戸時代に建てられたこの大鳥居の柱には、「深堀」創設の由来が刻まれている。


 深堀神社から貝塚遺跡資料館の前を通過し、深堀小学校の角を左折して進むと、曹洞宗金谷山菩提寺に突き当たる。ここには、深堀鍋島家の墓地や「深堀義士」の墓碑がある。この寺は、深堀氏の始祖深堀能仲が、相模国三浦庄金谷村に祀っていた薬師仏などを譲りうけ建立したものである。
 戦国時代の深堀氏は城山に居を構え、周辺一帯を支配し、海上通過税を取っていたが、これが海賊行為として豊臣秀吉の怒りに触れ、一時領地を没収された。これを取りなしたのが鍋島氏であり、一部領地が返され、以後深堀の殿様(領主)は鍋島家の家臣となり、佐賀藩に属して深堀姓も鍋島姓に改めた。従って、深堀の領主は鍋島家となったのである。深堀鍋島家の墓地は、長崎市唯一の旧藩主級墓地として保存されている。

 「深堀義士」は、長崎喧嘩騒動(深堀事件)と呼ばれる事件で切腹させられた武士達のことである。ここにはその墓碑がある。元禄13年(西暦1700年、赤穂浪士討ち入り2年前)、長崎町人の最有力者高木彦右衛門の使用人が、道で泥をはねられた腹いせに、長崎町の深堀屋敷に押しかけ、泥をはねた深堀三右衛門らに暴行を加え、大小の刀を奪い去った。知らせをうけた深堀からは、三右衛門の息子嘉右衛門ら10人が長崎へ向かい、三右衛門らと合流して高木屋敷へ討ち入り、高木彦右衛門および使用人計9名を殺害した。三右衛門は高木邸で切腹したが、討ち入りした武士達は、幕府によって切腹させられた。この事件は、日頃、横暴な振る舞いの多かった高木氏一派が制裁され、長崎町民からは喝采を受けたようである。また、大石内蔵助は、家来を派遣して吉良邸討ち入りの参考にしたという。墓碑は、深堀町民からとても慕われているのか、常に枯れることのない花で綺麗に飾られていた。

 菩提寺への道を後戻りし、深堀小学校の交差点を左折すると、深堀陣屋跡碑がある。「陣屋」とは、城を持たない小さな大名や、大藩の家老の知行所の政庁が置かれた屋敷で、城郭のない小さな平城のようなものである。深堀陣屋は、現在、深堀カトリック教会を中心とした、小高い丘の上の緑地公園となっており、深堀町では、お城・お屋敷と呼ぶこともあるようだ。江戸時代より深堀の領主(深堀鍋島氏)は、佐賀藩の家老として、佐賀藩の飛び地となった長崎深堀を、この陣屋に居を置き治めた。

 深堀陣屋下の道をめぐって進むと、深堀漁港へ出る。戦国時代には、深堀以外に外国船が停泊できる港がなく、深堀は貿易の拠点だったようだ。現在は小さな漁港になっているが、毎年各種ペーロン大会が開催されるばかりでなく、釣りのスポットでもある。

 港から戻って武家屋敷通りを通り、深堀武家屋敷跡碑へ向かう。ここで、深堀さん宅の表札を認めた。このあたりは昔ながらの石塀が保存されており、深堀鍋島家の家臣の屋敷が多く立ち並んでいた場所といわれている。この頃から雨脚が強くなりはじめた。

 もう一度、鳥居の柱に刻まれた碑文を見ようと思って深堀神社に向かったが、刻一刻バケツで水をかぶった様な雨脚は益々激しくなり、傘を持っていても衣服が濡れ始め、あっという間に道路も川の様な状況になってきたので、あわてて深堀貝塚遺跡資料館に逃げ込んだ。

 この資料館は、この地域に発達した縄文文化があったことを示す貝塚の資料館なのであるが、深堀の歴史や深堀陣屋の遺構の発掘調査結果なども展示されており、なかなか興味深い施設であった。しかし、である。なんとこの資料館は無人の展示場なのである。管理者がいないのである。また、無料なのである。玄関に、来館を自由に記帳するノートが置いてあるだけなのである。これを見ると、3ヶ月前に、銚子在住の深堀さんが来館したことがわかった。先ほどのタクシーの運転手が言ったこと思い出した。偶然にも同じタクシーに乗ってきたのであった。また拝観者も毎日は存在せず、今日も私一人で貸し切りなのだった。
 一通り見終わっても、雨脚は弱くならず、とてもではないが、傘をさしても外を歩ける状態ではなかった。どうしたらいいだろうか。しばらく、川の様になった道路に激しく降り注ぐ雨を見ていたが、結局、諦めてタクシーを呼んだ。残念だが、今回はこれで終わりにしよう。またの機会を楽しみにして。
 歌の一節が、突然そして寂しく頭に浮かんだ。
 ♪ああ〜、長崎は〜、今日も〜、雨だった〜♪


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